前回は豚のお話でしたので、今回は牛の中でも乳牛を取り上げます。
市内での牛の飼育は、すでに明治時代に行われていたことが資料に記されていますが、一般的に飼われていたのは、田畑を耕したり荷を運んだりするのに使う牛でした。牛乳をしぼる酪農(らくのう)が盛んになるのは第二次世界大戦後で、例えば南区下溝の古山(こやま)地区では、昭和35~40年(1960~65)頃には、集落の三分の一くらいの家で乳牛を飼っていたそうです。乳牛は、一年中乳がしぼれるということで奨励されました。
最初の写真は、『相模原市史現代図録編』に掲載されているもので、昭和44年(1969)頃の乳牛の飼育の様子です(撮影場所は未記載)。当時は現代のように多頭飼育ではなく、古山地区でも普通は多い家で五~六頭程度でした。
次の写真は、左側は「飼料(しりょう)切り」(収集地・南区下溝)で、牛や豚に与えるサツマイモなどを細かく切るのに使いました。また、右側は飼料用の「草刈り鎌(かま)」(中央区宮下本町)で、この家では桑畑だったところを、境川から水を引いて水田にして稲を作り、そこに冬場はレンゲを蒔いてこの鎌で刈り取って牛の餌にしました。自家で飼う牛の餌作りも大変な作業でした。
次の写真は、牛から乳をしぼる際に、牛の乳房を拭いて清潔にするために湯をくむのに使った手桶です。乳をしぼるのにも注意をはらっていたことが分かります。なお、前の草刈り鎌やこの手桶、次のバケツ・集乳缶(しゅうにゅうかん)、牛乳受けは、いずれも同じ方から寄贈いただいたもので、昭和30年頃から40年代にかけて酪農をしており、この家では規模が大きく、一番多い時で60頭くらい飼っていました。
次の写真の左は、乳牛の乳をしぼる時に使ったバケツ、右は牛乳を入れる「集乳缶」で一斗(いっと・約18リットル)入ります。倍の二斗入る缶もありましたが一斗缶の方が古く、出荷までの間は保存のため、一斗缶をロープで井戸につるして冷やしていました。そして、二枚目の写真は「かくはん」(収集地・中央区上溝)と呼んでいたもので、缶の中の牛乳を冷やすのに使いました。これでかき混ぜると、牛乳の冷えが早くなりました。
最後の写真は、牛乳びんを入れる「牛乳受け」です。宮下本町のお宅では、第二次世界大戦以前から川崎で牛乳の販売をしており、戦後はこちらで酪農をしながら牛乳を販売しました。当時は、酪農家を優先的に販売所にしてくれたそうです。紙パックではなく、びんで牛乳が配達されていた頃を思い出す方も多いのではないでしょうか。
乳牛の飼育が盛んになるのは、田畑での作物とともに、それまでの養蚕に代わるものとして農業の多角化を目指した時期でした。今回紹介した乳牛関係の資料も、そうした地域の農業の変化を示すものと言えます。