【新規収蔵資料見どころ紹介③】尾崎少年の手習い

【臨時休館のお知らせ】6月25日(火)と26日(水)は、館内設備等のメンテナンスを行うため休館となります。ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いいたします。27日(木)からは通常どおり開館します。

6月30日(日)まで、ミニ企画展「相模原に生まれた偉人 尾崎行雄(咢堂)新規収蔵資料展」を当館特別展示室で開催中です。
このブログでは、ミニ企画展で展示している郷土の偉人・尾崎行雄ゆかりの新規収蔵資料の見どころを紹介しています。(第1弾第2弾はリンクからご覧いただけます。)
第3弾となる今回は、タイトルのとおり少年時代の尾崎が書いた手習草紙について紹介します。

尾崎行雄少年時代の手習草紙(明治2(1869)年)

尾崎行雄は、安政5(1858)年11月20日、相模国津久井県又野村(現在の相模原市緑区又野)に父・行正、母・貞の長男として生を受けます。幼名は彦太郎(ひこたろう)といい、大変病弱な子どもでした。尾崎は自著『人生の本舞台』(昭和21(1946)年発行)においても、「私は生来、病身であった。小さい頃から頭ががんがん痛み、皮膚にはヒキガエルのようにぶつぶつができていて醜く、胃は弱くて少し変わったものを食べるとすぐ吐くという状態であった。」と振り返っています。

そんな尾崎少年が又野の地で過ごしたのは明治2(1869)年までのこと。役人として明治政府に仕えていた父のもとへ上京するため、ふるさとを後にします。
この手習草紙は、尾崎が生まれ故郷で過ごした最後の年である同年、文字を書く練習のために使用したものです。

幼名で署名されています。

紙いっぱいに「奉納八幡」と書かれた「八」の字の右上には、字が重なって判読しづらい部分もありますが、「明治二年」とあります。また、左下には「尾㟢彦太郎」と尾崎の幼名の署名も。当時10歳の子どもが書いたことを考えると、かなり達筆です。

しかし、別の手習草紙を見てみると…

鎧武者の落書きが!

鎧(よろい)を身につけた武士や、役者絵風なタッチのものなど、様々な落書きが描かれています。

中央に人の顔が描かれています。

しっかりと文字を書く練習をする一方で、子どもらしく落書きをしていた場面がうかがえる、まさに尾崎の少年時代が垣間見える資料です。

さて、恒例の展示室の“咢堂桜”を見てみましょう。はじめは枝ばかりが目立っていた桜の木も、今や青空を埋め尽くすほどの花で満開となっています。

満開御礼❀

みんなで咲かせた咢堂桜、こちらも展示の楽しみの一つとしていただけると幸いです。

※満開に伴って新規のメッセージ募集は終了し、現在は観覧のみとなっております。ご参加くださった皆さま、誠にありがとうございました。

(歴史担当学芸員)

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