5月下旬に山梨県へ資料調査に行った際、念願であった岩殿城跡も巡りました。岩殿城跡は山梨県大月市に所在する戦国時代の山城で、山梨県指定史跡にも指定されています。なぜ隣国甲斐の岩殿城を踏査したかったのか。それは表題の本能寺の変まで遡ります。
時は戦国時代、天下人までのぼりつめた織田信長でしたが、天正10年(1582)6月2日に、京都の本能寺に宿泊していた折、家臣の明智光秀の謀反により天下統一への道半ばにして急死するという歴史的な一大事件。小学校の授業でも必ず学ぶ日本の歴史です。旧暦の6月2日は、新暦でいうと今日からちょうど435年前の6月21日の出来事です。本能寺の変の波及は全国へ広がります。
戦国時代の市内は、関東の雄 北条氏の支配領域ですが、北条氏の支城である津久井城を本拠に津久井領を治めていたのは、その城主内藤氏になります。津久井城は相模と甲斐を結ぶ境目の城として、軍事的にも重要な山城です。実はこの内藤氏、本能寺の変による混乱に乗じて当時織田領であった甲斐に進軍し、岩殿城を奪取していたのです(天正10年6月13日北条氏政書状)。
岩殿城は標高634mの岩殿山に築かれた山城です。中央線や中央高速道路で大月方面に行ったことがある人は、右前方に大きな岩山をご覧になった方も多いと思います。岩殿山は高さ150mもの岩(礫岩)が露出した断崖絶壁が甲州道中沿いに面し、周辺の景観を圧倒しています。東国屈指の堅固な城としても知られ、現地に立つと確かに頷いてしまいます。
その山頂部に本丸などの曲輪(くるわ)や水手(みずのて)である池、敵の侵入を防ぐ堀切りなどが築かれています。
登山道は整備されており、麓から30~40分で山頂まで行けました。山頂からの眺めは雄大で、435年前の緊迫した甲斐国で、津久井城主の内藤綱秀もこの眺めを見ていたのかなと思うと、感慨深いものがあります。
なお、天正10年6月13日北条氏政書状は、3月に刊行しました『ふるさと津久井』第7号(下山治久「津久井城の在番衆と山角定勝」)に掲載されています。興味を惹かれた方は、合わせて是非ご高覧ください。