「写真で見る相模原~昭和・平成の生活と民俗~」(No.10・川漁②)

前回は、平成4年(1992)度の文化財記録映画「相模原の川漁」製作の際に撮影された写真を紹介しました。実は博物館の建設準備の一環として、昭和62年(1987)~平成元年(1989)度にかけて川漁に関する調査を行っており、その成果を生かして映画が撮影されました。

今回は、この調査の際に撮影された写真のうち、漁の道具を自ら作ったり、修理している様子を紹介します。魚を取ることばかり目が行きがちですが、こうしたこまごまとした作業があって、川漁全体が成り立っていたことが分かります。なお、文化財記録映画「相模原の川漁」の中にも、一部の作業が収録されています。

釣りの竿(さお)は、地元の漁師は一本の真竹から作った手製の竿を使っていました。本体の部分をノベザオといい、竿先にやはり竹のウラザオを取り付けて使いました。写真は昭和63年(1988)11月に緑区大島での撮影で、上では竹を火であぶってノベザオの油抜きをしており、また、竹の曲がった部分を直しています。

                                                        

釣りと並んで、川漁として一般的な投網(とあみ)は、現在はナイロン製の網となっていますが、以前は絹糸などを自分で編んでいました。この糸は撚って強くする必要があり、業者に頼むほかに、円筒形の木に金棒を通したコマと呼ばれるものを使って、自家で糸をよることもありました。写真はコマを吊り下げたところで、金棒を回して糸をよっています。昭和62年(1987)10月・大島の撮影です。

                                                           

 

投網は、竹製のメイタで網目の大きさを揃えながら、同じく竹製のアバリ(アミバリ)で糸を編んでいきます。投網の使用後には、傷んだところをアバリなどで直すほか、網をよく水洗いして乾かすなど、手入れが大事でした。写真は、メイタで網目を揃え、アバリで編んでいるところで、昭和63年(1988)3月の南区磯部の撮影です。

                                                               

こうしたアバリやメイタは、網目の大きさに合わせて違う大きさのものがありました。さらに、網の下部につけるおもりも自分で作り、鉛を流し込むおもりの型などもありました。

                                                             

 

元々、相模原では川漁が生計の中心となることは少なく、他の仕事をしながら夏場を中心に漁をしていた人がいましたが、昭和30年(1965)代には、流域の都市化や開発等によって魚も減り、成り立たなくなりました。それでも漁の道具を自ら作ったことなど、漁を巡る生活があったことは、地域を知る上でも忘れてはならないことの一つと言えましょう。

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