市内のかつての畑作では、主に夏場に陸稲やサツマイモ、冬には大麦・小麦が作られていましたが、雨が少ない年では陸稲はほとんど収穫がないのに対して、粟(アワ)はたいていできたと言われ、明治時代の記録などを見るとかなり作られていたことが分かります。
雑穀の粟と聞くと粗末なものとイメージしますが、米がとれれば米を食べ、夏場に麦がとれれば麦ばかり食べるのに比べ、一年中、麦に米と少しの粟を混ぜて炊いた「ミトリマゼ」と呼ばれる飯が食べられる農家はよい家ともされていたそうです。また、米の餅のように粟餅にするための糯粟(もちあわ)も作られました。
今回紹介するのは、昭和63年(1988)7月から10月にかけて緑区相原で行われた粟作りの様子です。当時、調査などさまざまな面でお世話になっていたご兄弟が、せっかくだから久しぶりに粟を作るから、ということでお話しをいただきました。
粟は、小麦を収穫した後の7月上旬頃が蒔き時で、この年は7月12日に行いました。粟の種は写真のように大変細かく、古くは人糞や灰と混ぜて蒔いたとされますが、さすがにこの時はそうした蒔き方まではしませんでした。写真では種を蒔く方(兄)の後ろで、弟さんが蒔いたところに足で土を掛けています。
次の作業(8月16日)がイチバンゴと呼ばれるもので、同じ畑で前に作って収穫後に残っている小麦の根を掘り上げるとともに、せっかく蒔いた粟ですが種が細かく、一株に小さい穂がたくさんできてしまうために間引いていきます。写真では、伸びた粟の間を耕した後で、手でおろぬき(間引く)ながら、草も取っています。
8月26日にはニバンゴが行われました。やはり粟の間を耕し、そこに置いてある先に間引いた粟などの上に土を掛けていくもので、これらは肥料となります。下側の写真では、鍬の後ろ側に間引いた粟があるのが見えます。
収穫は10月頃で、この時は10月24日でした。粟は麦などと異なり、アワコギと言って根ごと手で引き抜くのが普通で、後で穂だけを包丁で切り取ります。上の写真では粟を引っこ抜き、下では包丁で穂刈りをしています。そして、切り取った穂は家に持ち帰り、クルリボウで叩き、トウミに掛けて選別することになります。
今回の粟作りの撮影は、博物館の建設準備に日頃からお世話になっていたご兄弟のお誘いがあってできたもので、博物館の開館はもとより、この職員ブログで紹介している数々の写真も、そうした非常に多くの皆様のご協力の賜物なのは言うまでもありません。
粟を作っていただいた方の写真は、このほかにも年中行事を中心に保管しており、これからも折に触れて紹介していきたいと思います。