「写真で見る相模原~昭和・平成の生活と民俗~」(No57・養蚕の祈願④)

前回は、特に津久井地域の養蚕に関わる石仏を紹介しました。次に取り上げる緑区与瀬の「永代蚕施餓鬼塔(えいたいかいこせがきとう)」は、江戸時代末の弘化4年(1847)に地元の商人たちによって造立されたもので、繭から糸を取り出す際には中の蛹(さなぎ)を殺さなければならないため、その供養のため造られたと考えられます。

また、緑区三井(みい)の「蚕蛹供養塔(さんようくようとう)」は、造立年は不明ですが大正から昭和初期に繭を乾燥させるための共同乾燥場があった場所に、やはり中の蛹を供養するために造られました。近代の養蚕の工業化に伴うものとしても注目されます。

 

もちろん養蚕に関係する石仏は相模原地域にもあり、緑区大島の嘉永2年(1849)「鬼子母神(きしもじん)供養塔」には安産守護とともに「蚕守護」と記されています。一般に鬼子母神は、子どもの出産育児の神として信仰されていますが、養蚕が盛んであった市内では蚕の守護も願われていたことが分かります。

 

南区磯部地区を歩いていると、いずれも明治5年(1872)に建てられた同じような形をした「庚申塔(こうしんとう)」がたくさんあるのが目につきます。地区内に80基以上、なかには34基が並んでいるところなどもあります。

そして、前の写真の庚申塔が並んでいる場所の向かい側には、やはり明治5年のひときわ大きな庚申塔が見られます。庚申塔に彫られることも多い「青面金剛(しょうめんこんごう)」と記され、台座には三匹の猿が舞う姿が彫られています。

地区内の勝源寺(しょうげんじ)にまつられている青面金剛像は、養蚕の神として蚕の作業が始まる4月には多くの参詣人がありました。まるで勝源寺への道しるべのように立つこれらの庚申塔は、地域の養蚕信仰を今に伝えています。

 

最後に、今では位置が少し移動していますが町田市相原地区にある繭の形をした「蚕種石(こだねいし)」は、養蚕の時期が近づくと緑色に変わるといわれ、農家に蚕の飼育を始める準備を知らせる石として近隣の市内でも有名でした。

 

養蚕に関わる石仏にはさまざまなものがあり、こうした石仏を見ることでも、人々の生活と養蚕との多様な関係をうかがうことができます。

カテゴリー: 民俗むかしの写真, 考古・歴史・民俗 タグ: パーマリンク