緊急事態宣言を受け、7/17から8/29まで開催予定であった博物館×公文書館共催 相模原町誕生80年企画「軍都さがみはら展~国内最大の町誕生物語~」は、8/5で終了となりました。(当館は緊急事態宣言中は休館の予定です)
そこで、「軍都さがみはら展」について、今回から6回にわたりコーナーごとにこのブログにて解説していきたいと思います。今回は最初のコーナー「陸軍士官学校の東京からの移転」です。
陸軍士官学校は陸軍の将校を養成する学校で、まさに陸軍の中心的施設の一つです。もとは東京 市ヶ谷(現 新宿区内)にありましたが、昭和初期に軍隊の装備の近代化(戦車など)により広大な演習用地が必要となり、陸軍内では移転候補地を模索していました。
そうした中、1936年(昭和11)4月、移転候補地は次の表のとおり八王子附近、富士南麓、原町田西方、愛知県豊橋の4つの候補地に絞られました。このうち、原町田西方が現在の相模原市南部から座間市北部にあたります。
拡大画面は下記をご覧ください
移転候補地の条件は、大部隊の演習が可能であること、買収のため土地が安く地主も少ないこと、建築工事に際し基礎工事がしやすいこと、そして天皇陛下が卒業式に臨席(りんせき)するため行幸(ぎょうこう)がしやすいこと等々がありました。最終的に原町田西方は、「実現確実且容易なり」とあり最終候補地に決定しました。
1936年(昭和11)6月27日、座間村役場に集められた座間・大野・新磯・麻溝村の4村長と陸軍主計官(しゅけいかん)との間で、初めて用地買収会合が開かれました。
内容は陸軍士官学校用地として座間・新磯村で66.7町歩(66.1ha)、演習場用地として新磯村250町歩(247.8ha)、麻溝村340町歩(336.9ha)の土地を買収したいという申込みでした。
各村は村内で議論を交わし、特に耕作地の大半を失うことになる新磯・麻溝村は紛糾しましたが、陸軍側の強い態度もあり、村側は失業対策を陳情した上で買収に協力します。
士官学校の建設工事は、同年10月に起工、翌1937年(昭和12)9月に第一期工事と本科生徒隊1300人の移転が完了しました。
また、同年12月20日の第50期生徒の卒業式に昭和天皇が行幸され、この時に現在も市内の小田急線沿いを通る行幸道路が作られました。卒業式に臨席された昭和天皇はこの地を「相武台(そうぶだい)」と命名されました。
また、このコーナーでは、士官学校当時の写真を展示しました。
その他、現在のキャンプ座間内に残る士官学校当時の建造物などを写真パネルで紹介しました。
なお、士官学校の用地の約2/3は現在の座間市域です。陸軍士官学校の移転の詳細は、『相模原市史 現代テーマ編~軍事・都市化~』ほか『相模原市史』や『座間市史』などを図書館等でご覧ください。
また、本企画展の展示解説動画を、当館ホームページ「ネットで楽しむ博物館」に掲載しておりますので、そちらもご覧いただければ幸いです。
当館ホームページ「ネットで楽しむ博物館」