津久井城市民協働調査として、津久井城跡南部の城坂曲輪群(しろさかくるわぐん)6号曲輪の発掘調査が11月8日から12月1日まで実施されました。
前回紹介した3つの調査区について、何が見つかったのか概要を説明します。
まずは調査区の位置についておさらいです。6号曲輪の位置はこれまで調査をしていた5号曲輪の北東にあり、①~③の調査区を設定しました。
①の調査区では、溝が見つかりました。溝の幅は20~40cmほど、深さは一番深いところで15cmでした。北から南に走り、調査区外へ延びています。
溝に埋まった土は江戸時代以降のものですが、具体的な時期や用途はよく分かりません。この調査区では一部を深く掘り下げ、土層の堆積状況を確認しました(上の写真の赤枠)。掘り下げていくと縄文時代の打製石斧が出土しました。これは土掘具として使われたと考えられています。そのほかにも縄文土器の破片が数点出土しています。
土層の堆積状況は津久井城が築かれた中世相当の土層がなく、表土の直下に縄文時代の土が認められ、土器や石器が出土しました。出土量はわずかですが、縄文時代の人々の活動が津久井城ができるよりも前にあったことが分かり、貴重な成果が得られました。
②の調査区では石がまとまって見つかりました。
石は10~20cmの大きさで10数点確認できました。石の形は角張ったものが多く見られます。石の周辺を精査していくと、これらの石は上端幅が約3mある溝の中に埋まったものであることが分かりました。(溝の幅:下の写真の白破線)。
石を残しつつ、溝の形状やどのような遺物が含まれているのか明らかにするため部分的に掘り下げを行い、下層の状況を確認しました(上の写真の青枠)。また、この部分的に掘り下げた部分から、かわらけの破片が1点見つかりました。
調査の結果、1707(宝永4)年の富士山の噴火により降灰した宝永火山灰がこの溝の埋まり切るころに堆積しており、この噴火よりも前に築かれた溝であることが分かりました。しかし、この溝の詳しい時期や用途を明らかにすることができませんでした。今後、津久井城跡で確認された溝の事例と照らし合わせて考えるなど、検討を重ねていく必要があります。
③の調査区では、硬化面が確認されました。
硬化面とは土が字のとおり硬くなっている部分を指します。調査区の南側で見つかり、人為的に締め固められたものの可能性があります。ここからは時期が分かる遺物がみつかっておらず、いつのころの遺構か不明です。調査を進めると②の調査区でみつかった石の集中を含む溝の続きであることが明らかになりました。
現段階の6号曲輪の調査状況から、5号曲輪と同時期に比定される遺構は確認できていません。今年の発掘調査の掘り下げる作業はここまでで、これから先は図面や写真撮影等の記録作業にかかります。