相模原は古くから養蚕が大変盛んで、博物館の自然・歴史展示室でも蚕が桑(くわ)を食べて成長して繭(まゆ)を作り、その繭から生糸にするまでの道具を展示しています。次の写真は、展示室の「くらしの姿」コーナーの展示の様子で、多くの養蚕用具が見えています。
博物館では展示してある資料のほかにも、多くの方から寄贈いただいた、養蚕に関わる道具をはじめとした資料を保管していますが、その中にあまり見慣れないものとして、蚕の種屋(たねや)で使われた道具があります。
蚕の卵のことは種(蚕種・こだね)と呼ぶことが多く、この蚕種は、当時の法律によって一般の農家で作ることはできず、専門の種屋(たねや)で作った蚕種を買って蚕を飼いました。種屋は各地にいて、次の写真は、いずれも中央区上溝で大正時代から昭和10年代まで営業していた「国富館(くにとみかん)」の資料です。
蚕の卵は、古くは紙に産み付けさせましたが、次の写真の一番左がヒラヅケ、その隣りがワクセイです。ヒラヅケは紙一面に卵があり、ワクセイは28ある枠の中に産み付けてあります。ワクセイの隣りのバラダネは、薄い種箱の中に卵が一つずつバラの粒になって入っています。ヒラヅケやワクセイから次第に、種箱のバラダネに変わっていきました。なお、一番右側は、国富館でこうした種紙を入れて運ぶのに使った箱です。
種屋では、雄(おす)と雌(めす)を分けて交配させる必要がありますが、繭を見ただけではなかなか雌雄が分かりません。しかし、雌の繭の方が雄より大きいため、雌雄鑑別機(しゆうかんべつき)にかけて雌と雄を分けました。この雌雄鑑別機は回して使い、その動力として使ったのが二枚目の写真の原動機(げんどうき)です。ただ、これでは正確に分けられないので、第二次世界大戦後には使われなくなりました。
次の写真は、国富館ではなく座間市で種屋をしていた方からいただいたもので、近在では座間は種屋が比較的多くいた地区でした。蚕の種を洗う道具で、卵を入れて洗うと悪いものは浮いてきて良い卵だけ残ります。セルロイド製で細かい穴がたくさん開いており、水が切れるようになっています。
この家では、昭和12年(1937)の陸軍士官学校の移転に伴って、所有する桑畑が用地にかかって養蚕ができなくなり、蚕種屋もやめざるを得なくなったそうです。寄贈当時は市内中央区相模原二丁目にお住まいでした。
今回取り上げた資料は、一般の農家で使うものではなく蚕種屋用の特別な養蚕道具ですが、博物館では地域で大変盛んだった養蚕を知り、伝えるために、幅広く関連する資料も収集してきました。今後ともそうした資料を含めて紹介していきたいと思います。