籠(かご)や笊(ざる)、次いで桶(おけ)を取り上げましたので、今回は釜(かま)と鍋(なべ)です。釜や鍋は金属製で、火にかけて煮炊きに使われます。
最初の写真は、胴の回りに鍔(つば)が付いた「羽釜(はがま)」で、飯を炊くのに使われました。鍔の部分が羽のような形をしているところからの名称で、かまどに釜をのせると、ちょうど鍔で止まるようになっています。御飯が煮える時に吹き上がる蒸気を抑えるために、重くて厚い木のふたがセットになっています(収集地・中央区弥栄)。
次の写真は、藁を編んで作った釜敷き(かましき)です。羽釜の底は、火の熱が伝わりやすいように丸い形をしているために不安定なうえ、火の煤(すす)が付いています。それで下に置くには敷物が必要で、釜敷きはなくてはならないものでした。鍋を置く時にも使われました(中央区田名)。
次の写真の大釜は、昭和10年(1935)頃に五軒の家で共同購入したもので、これで自家製の味噌を作るための豆を煮ました。下側の炉(ろ)の部分は、大釜に合わせて手製したそうです(緑区東橋本)。ただ、味噌や醤油は古くから売っているところもあり、農家なら必ず作るといったものでもありませんでした。
釜と並んで煮炊き用の道具として代表的なのが鍋です。次の写真は両脇に吊るすための弦(つる)が付いたもので、弦があるためかまどではなく、囲炉裏(いろり)に下げて使うことができます。この鍋は少し小さい蓋(ふた)もあり、後ろ側に写っています。鍋は大正末から昭和にかけてサツマイモなどを煮るのに使い、当時は家族の人数が多かったので、一日で一鍋の芋を食べてしまったと言います(中央区上溝)。
米や豆などを炒る時に使う、素焼きの平たい土鍋を焙烙(ほうろく)と言いますが、次の写真のような浅くできている鍋も焙烙鍋や単に焙烙と呼び、煮るのではなく炒ったり焼いたりするのに使いました。また、小麦粉を水でこねて平らにしたヤキモチを焼いたりもしました。この焙烙は、第二次世界大戦以前にサツマイモや餅などを焼く時に使っていたそうです(中央区上溝)。
ここまで地域で昔から使われてきたものを紹介してきましたが、最後の写真は、昭和30年(1955)代に南区南台で使用された電気釜です。博物館では、羽釜から電気釜を使った炊飯へといった、暮らしの大きな変化の状況を物語る資料として、戦後の高度経済成長期以降に登場したさまざまな家電製品なども収集しています。