ミニ解説① 家康の柩が通った相模原

先日のブログでもお知らせしたとおり、市立博物館1階エントランスにて、NHK大河ドラマ“どうする家康”関連ミニ展示「相模原にもあった!?徳川家康ゆかりの地」を開催中です。

このミニ展示では、今年の大河ドラマの主役・徳川家康やその祖先、重臣(おもだった有力な家臣)にまつわる実は身近な伝承地について、相模原市内を中心に紹介しています。
そこで、今回から数回にわたり、ミニ展示には収まりきらなかった「ゆかりの地」の魅力や、展示の裏話などをこちらのブログでお伝えしたいと思います。

博物館エントランスの一角で開催中です。

初代将軍として江戸幕府の礎を築いた徳川家康は、1616(元和2)年4月にその生涯に幕を下ろします。享年75歳、当時としてはかなり長寿でした。
家康は自身の死後、埋葬や葬儀、位牌を納める場所、一周忌にすべきことについて事細かに遺言しており、それに従って亡くなった翌年に久能山(くのうさん/静岡市葵区)から日光山(にっこうさん/栃木県日光市)へ柩(ひつぎ)を遷座(せんざ)します。南区新戸(しんど)の一里塚は、この柩を運ぶ道中に築かれたものとされています。

南区新戸の一里塚の標柱

江戸時代に編さんされた地誌『新編相模国風土記稿』には、この一里塚について「府中道の左右に相對す 高一丈、頂に榎樹ありしが寛政中枯槁す、元和三年神柩通御の時築立ありし一里塚なりと傳ふ…」とあります。
武蔵国(むさしのくに)の国府があった東京都府中市につながる府中道の左右に高さ約3メートルの塚が築かれ、その頂上に植えられていた榎(えのき)は寛政年間(1789~1801年)に枯れてなくなったことが記されています。(植物のエノキについてはこちらのブログで紹介しています。)
一里は約4キロメートルで、新戸の一里塚は久能山から日光山の長い旅路の道標の一つとして築かれたのでしょう。現在は記述にあるような盛り土は残っていませんが、標柱により一里塚の場所を確認することができます。

また、ミニ展示では霊柩(れいきゅう)遷座に関わる場所として、新戸の一里塚にも程近い座間市の宗仲寺を紹介しています。
宗仲寺は、家康の重臣の一人・内藤清成(ないとう きよなり)が自身の父である竹田宗仲(たけだ そうちゅう)の菩提寺(ぼだいじ)として1603(慶長8)年に開いた寺で、家康が生前に好んでいた鷹狩りの折に休憩所として立ち寄れるよう、清成が境内に御殿を建てたと言われています。

明治初期の宗仲寺境内図。鳥居奥の建物に家康の柩が入ったとされています。(本堂で撮影)

家康没後、霊柩遷座の際も宗仲寺は休憩所となっており、当時柩が入った御殿のものとされる欄間(らんま)が本堂内陣に現存しています。
このほか、家康ゆかりの宗仲寺には、家康がてずから植えたとされる銀杏(いちょう)の木や、拝領品と伝わる茶道具など見どころがたくさんあります。

ここまでは、家康の柩が通った相模原と近隣のゆかりの地を紹介してまいりましたが、ミニ展示では霊柩遷座の道のりについて、もっと遠く離れた地も紹介しています。
それが「絵葉書に描かれた霊柩遷座のまちなみ」のコーナーです。

期間限定のラインナップです。

このコーナーでは、2015(平成27)年3月に閉室した津久井郷土資料室から当館に移管された12,000点以上の絵葉書の中から、霊柩遷座に関係する場所をピックアップして展示しています。これらは全て、緑区若柳出身の郷土史家・鈴木重光(すずき しげみつ)氏が明治・大正・昭和にかけて収集した膨大な絵葉書コレクションの一部です。

絵葉書の展示については、資料保護の観点もありますが、一度に全ての絵柄を紹介しきれない…ということで、会期中の入れ替えを予定しています。
第1弾となる今回は、日光東照宮から家康の墓所や色鮮やかな陽明門、府中の大國魂神社、小田原城や西湘海岸、三島神社などの全10点です。2月初旬には第2弾に入れ替える予定ですので、ご興味がある方はお早めにお越しください。

そして、当初これらの絵葉書を所蔵していた津久井郷土資料室について詳しく知りたい場合は、自然・歴史展示室内で現在開催中の市史ミニ展示「津久井郷土資料室と雑誌『日本少年』」もあわせてご覧いただければと思います。

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