三年ぶりの祭囃子~相原・当麻田囃子連の試み~

新型コロナ感染症のまん延が始まって二年半が経過しました。その間、博物館も休館を余儀なくされた期間があるなど、社会全体に大きな影響を及ぼし、祭礼や行事なども多くのところで中止や延期となりました。そうした状況においても、三年目になった今年(令和四年)には少しずつ再開の動きが見られ、各地で祭礼行事も実施されつつあります。

緑区相原地区の相原八幡宮は8月25日が本祭で、現在は月末の土・日曜日に行われています。神輿のほかに、当麻田(たいまだ)と森下の二つの自治会の山車(だし)がそれぞれ出て、地区内を引き回しながら賑やかにお囃子(おはやし)が演奏されます。しかし、やはり新型コロナ感染症の影響により、残念ながらこの三年は祭りが中止になってしまいました。

 写真①山車のひき出し

当麻田の囃子を担当する当麻田囃子連(はやしれん)では、会長を中心に自治会の役員とも協議を重ね、感染対策を講じつつ、囃子を披露する機会を何とかつくれないか模索しました。

 写真②山車飾り付け

囃子の楽器は笛(ふえ)、大太鼓(おおど)、小太鼓(締め太鼓・二つ)、すり鉦(すりがね)で行いますが、三年もできないと吹き方や叩き方が分からなくなり、次の世代への伝承が難しくなることや、今年、中学三年になる子どもはせっかく囃子を覚えても在学中に披露する場がなく、その後も続けるきっかけが乏しくなるという切実な想いからでした。

写真③小学校での披露。左側で今回の囃子の演奏について、自治会長が説明している

 

写真④小学校での披露

ちなみに当麻田の囃子は、明治5年(1872)頃に、地区にあった造り酒屋に藤沢市大庭(おおば)から来ていた杜氏(とじ)が若者たちに教えて始まったとされ(『相模原市域 祭り囃子』)、周辺の地域で行われているものとは違う系統の囃子と言われています。

写真⑤小学校での披露

今回紹介する写真は、前日の台風による大荒れの天気から一変して、8月14日(日)に快晴の中で行われた当麻田地区の囃子の様子です。

当日は、地元の青年たちが中心となり、山車を自治会館までひき出し(写真①)飾り付け(写真②)をして、その後、まず当麻田小学校で少年野球やドッジボールの練習をしていた子どもたちや父兄に囃子を披露(写真③④⑤)しました。そして、自治会館に戻って、山車に乗って囃子を行いました(写真⑥⑦)。本来座って行う囃子を小学校では初めて立ってやり、また、山車での披露では製作した仮の台に太鼓を置いて間隔を開けるなどの工夫をして、いわゆるソーシャルディスタンスにも配慮しました。。

小学校はもちろん、自治会館にも久しぶりのお囃子を楽しむ方々の姿がありました。また、博物館にも連絡をいただき、囃子の披露を拝見することができました。

写真⑥自治会館での披露

写真⑦自治会館の披露

今後、新型コロナ感染症がどのように推移し、私たちの生活に影響を与えるかは見通せませんが、祭礼や行事は地域の人々の生活になくてはならないものです。今回のような大切な取り組みを、博物館としても記録していきたいと思います。

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博物館収蔵資料紹介~乳牛の飼育

前回は豚のお話でしたので、今回は牛の中でも乳牛を取り上げます。

市内での牛の飼育は、すでに明治時代に行われていたことが資料に記されていますが、一般的に飼われていたのは、田畑を耕したり荷を運んだりするのに使う牛でした。牛乳をしぼる酪農(らくのう)が盛んになるのは第二次世界大戦後で、例えば南区下溝の古山(こやま)地区では、昭和35~40年(1960~65)頃には、集落の三分の一くらいの家で乳牛を飼っていたそうです。乳牛は、一年中乳がしぼれるということで奨励されました。

最初の写真は、『相模原市史現代図録編』に掲載されているもので、昭和44年(1969)頃の乳牛の飼育の様子です(撮影場所は未記載)。当時は現代のように多頭飼育ではなく、古山地区でも普通は多い家で五~六頭程度でした。                    

 

次の写真は、左側は「飼料(しりょう)切り」(収集地・南区下溝)で、牛や豚に与えるサツマイモなどを細かく切るのに使いました。また、右側は飼料用の「草刈り鎌(かま)」(中央区宮下本町)で、この家では桑畑だったところを、境川から水を引いて水田にして稲を作り、そこに冬場はレンゲを蒔いてこの鎌で刈り取って牛の餌にしました。自家で飼う牛の餌作りも大変な作業でした。                  

 

次の写真は、牛から乳をしぼる際に、牛の乳房を拭いて清潔にするために湯をくむのに使った手桶です。乳をしぼるのにも注意をはらっていたことが分かります。なお、前の草刈り鎌やこの手桶、次のバケツ・集乳缶(しゅうにゅうかん)、牛乳受けは、いずれも同じ方から寄贈いただいたもので、昭和30年頃から40年代にかけて酪農をしており、この家では規模が大きく、一番多い時で60頭くらい飼っていました。                   

 

次の写真の左は、乳牛の乳をしぼる時に使ったバケツ、右は牛乳を入れる「集乳缶」で一斗(いっと・約18リットル)入ります。倍の二斗入る缶もありましたが一斗缶の方が古く、出荷までの間は保存のため、一斗缶をロープで井戸につるして冷やしていました。そして、二枚目の写真は「かくはん」(収集地・中央区上溝)と呼んでいたもので、缶の中の牛乳を冷やすのに使いました。これでかき混ぜると、牛乳の冷えが早くなりました。                  

 

最後の写真は、牛乳びんを入れる「牛乳受け」です。宮下本町のお宅では、第二次世界大戦以前から川崎で牛乳の販売をしており、戦後はこちらで酪農をしながら牛乳を販売しました。当時は、酪農家を優先的に販売所にしてくれたそうです。紙パックではなく、びんで牛乳が配達されていた頃を思い出す方も多いのではないでしょうか。

 

乳牛の飼育が盛んになるのは、田畑での作物とともに、それまでの養蚕に代わるものとして農業の多角化を目指した時期でした。今回紹介した乳牛関係の資料も、そうした地域の農業の変化を示すものと言えます。

 

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初秋の林道調査

9月13日、真夏に緑区のある林道で実施した絶滅危惧植物調査の追跡調査を行いました。
その絶滅危惧植物とは、キセワタです。神奈川県内でも自生地が数カ所しか残っておらず、また、不安定な立地に生育することが多いことから、開花状況を再調査しました。
嬉しいことに、前回、つぼみをつけて伸張中だった株がしっかり開花していました。

キセワタ

前回は猛暑の中、しかも朝方の雨が上がってからの晴れだったため、湿度マックス、ヤマビル祭り!の道を通らなければなりませんでした。しかし、この日はからりと晴れて、ヤマビルには出会わずに済みました。それでも残暑は厳しく、たくさんの汗をかきました。キセワタの写真を撮影していると、上空から「ピィー」と強い鳴き声がします。見上げると、ハチクマでした。

ハチクマ

おそらく渡りの途中と思われます。秋の渡りの季節の到来を感じさせてくれました。
林道沿いではイタドリの花が満開です。

イタドリ

小さな花ですが、よく見るとかわいらしい花です。

イタドリの花

キハギも咲いていました。

キハギ

こんなに暑くても、季節は着実に秋へと向かっています。

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地質分野実習 ~野外調査編~

こんにちは!地質分野の実習生です。

今日(9月8日)は相模原市南区の原当麻駅付近に行き、地層の観察と採取をしました。

この野外実習では、博物館資料として火山灰と礫(れき)を採取しました。

原当麻駅から当麻山(たいまさん)公園、子の神坂(ねのかみざか)、笈退(おいしゃり)の泉、無量光寺(むりょうこうじ)へ行きました。

相模原を構成している段丘の中の2つの段丘とその段丘崖(だんきゅうがい)を観察しました。

資料採取は崖に登って、鎌とスコップを用いて目的の火山灰や礫の採取を行いました。

露頭(ろとう)は道路沿いで見られることが少ないので、補装されていない道や道なき道をたくさん歩きました。

蚊やスズメバチに悩まされながら歩いた先にあったのは、涼しい湧き水。

一遍上人(いっぺんしょうにん)ゆかりのこの湧き水が、どんな地層を通って私たちの前に出てきたのか、実際の地層を見ながら考えられる有意義な時間になりました。

合計7つの地層・湧き水をめぐって、みんなへとへと。たくさんの実物資料と写真を集めることができました。この資料をもとに、私たちはこれから展示を作っていきます。9月17日から展示が始まる予定なので、ぜひ見に来てくださいね!

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津久井城の市民協働調査の講習会を行いました。

8月17日に津久井城市民協働調査の講習会を津久井湖城山公園で開催し、14名の参加がありました。

今回の講習会のテーマは「城山周辺の先史時代」。先史時代とは、旧石器~古墳時代を対象としたものです。講師は博物館の考古担当学芸員が務めました。

江戸時代の絵図から地形を説明

はじめに城山周辺の地形として、城山ダムによって津久井湖ができました。先史時代には津久井湖は当然なく、現在の地形と先史時代の地形は全く同じではありません。

地形の状況を把握した後、旧石器時代、縄文時代と順を追って説明し、弥生~古墳時代まで遺跡の概要を述べました。

まとめとして、城山を中心とした場合、北に相模川、城山の東西に平坦な地形、南に丘陵や山地があり、城山の周辺には旧石器時代から古墳時代の遺跡があることから、先史時代の段階ですでに人々が生活していたことが明らかで、時代を超えて生活をしやすい環境であったと考えられます。

次回、9月21、22日は、市内で発掘調査の研修を行います。11月の発掘調査に向けて、発掘調査の目的、調査区の概要、記録図面の作成などを再確認します。講義の様子はこのブログで紹介いたしますのでお楽しみに!

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博物館収蔵資料紹介~豚の品評会

神奈川県の豚の飼育の歴史は、横浜が開港して外国人の居住が始まった幕末~明治にさかのぼります。その後、昭和10年(1935)に開催された全国肉畜博覧会において、市内でも飼育されていた中ヨークシャー種の「高座豚(こうざぶた)」が優勝し、「高座豚」の名は全国的に知られるようになりました。

市内の多くの農家には豚がいましたが飼ったのは一~二頭くらいで、主に家の残飯を食べさせ、肥料である堆肥(たいひ)を作るために豚を飼っていました。また、大きくなった豚を肉豚として売ったりしました。しかし、なかには、子豚を生ませるための種豚(たねぶた)を持つ家があり、こうした種豚の優劣を競う品評会(ひんぴょうかい)が各地で開催されました。

最初の写真は、『相模原市史現代図録編』に掲載されているもので、昭和36年(1961)に中央区の上溝小学校校庭で開催された第10回相模原市畜産共進会(きょうしんかい)の様子です。飼い主が豚を歩かせるところを右側の白衣を着た審査員が見て、審査をしています。                 

 

次の三枚の写真は、いずれも南区下溝の同じ家から寄贈されたものです。この方は地域の中で熱心に種豚を飼育していたことでも有名で、品評会にも種豚を出品して数多くの賞を受賞されています。

一枚目の写真は、まだ相模原町だった昭和25年(1950)5月に開催された第1回畜産品評会で優等賞を受賞した際の記念カップで、「豚 優等」と記された紙が見えます。                   

 

次は、相模原町が市になる直前の昭和29年10月(市政施行は11月20日)に実施した第3回畜産共進会で、やはり優等賞となった際の副賞の柱時計です。当家では、52年(1977)10月まで20年以上この時計を使い続けましたが、これ以降は故障して使えなくなったそうです。

 

三枚目は翌年の昭和30年(1955)10月の第4回畜産共進会で一等賞を受賞した際に、日本種豚登録協会から贈られたメダルで、「名誉高等登録賞」とあります。なお、今回紹介した三回の品評会とも賞状が一緒に寄贈されています。                    

 

最後の写真は、中央区上溝の方からの寄贈で、昭和39年(1964)10月開催の第5回全日本豚共進会(日本種豚登録協会主催)優等賞の優勝旗です。毎年の県主催の共進会とともに、四~五年に一度くらい全国大会があり、毎回のように相模原の農家が受賞していました。                    

 

市内に限らず、養豚が盛んな地域ではサツマイモを主要な飼料としていて、比較的サツマイモが多く作られた相模原も豚飼育にはよかった土地柄でした。第二次世界大戦前後の全国的に食料難の時代を経ても優良な豚の血統が残ったのも、サツマイモのクズ芋があったからとも言われています。

そして、今回紹介したようなコンテストの副賞品は、地域の中で盛んだった豚をはじめとした畜産の歴史を教えてくれる資料と言えます。

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9月10日オープン!わぉ!な生きものフォトコンテスト写真展

9月10日から「第7回わぉ!な生きものフォトコンテスト写真展」を特別展示室で開催します。

ポスター

この写真展は、ソニー株式会社と公益財団法人日本自然保護協会が主催する「わぉ!わぉ!生物多様性プロジェクト」の一環として、思わず「わぉ!」と声をあげてしまいそうな生きものとの出会いを記録した写真コンテストの入賞作品展です。
前日の今日(9月9日)、作品の列品作業を行いました。水準器やコンベックス(巻尺)を使って位置や傾きを調整しながら慎重に進めます。

慎重に作業を進めます

列品が終わると、今度は照明の設置です。高所作業になるので、安全帯とヘルメットを着用しながら進めます。

高所作業は安全第一

準備万端整いました。明日オープンとなります。

明日が待ち遠しい!

見ると思わず「わぉ!」と声を出してしまう写真がみなさまをお待ちしております!

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9月8日は、桑の日 その2 桑の木に集まる虫

9月8日が9(く)と8(わ)のごろ合わせから「桑の日」ということで、クワの木について紹介する記事の第二弾です。
ここではクワの木に集まる興味深いムシたちを取り上げます。まずはこちら、その名もクワコ。写真はその幼虫(終齢幼虫)です。

クワコの終齢幼虫

カイコに最も近い蛾の仲間で、中国大陸に分布するクワコと、現在私たちが飼育するカイコは同じ祖先であると言われています。カイコは成虫になっても飛べませんが、クワコは野生の蛾なので、成虫は飛べます。成虫の姿はやはりワイルドでかっこいいですね。

クワコの成虫

続いてこちらは、クワキジラミの幼虫です。

クワキジラミの幼虫

キジラミとは、樹液を吸って生活する、セミやカメムシと同じ仲間の昆虫です。この仲間は、おしりからロウ状の物質を出して、なにやらモジャモジャしたものをくっつけることがあり、クワキジラミも、クワの葉裏に集って白くモジャモジャ?しています。なぜこのようなモジャモジャを付けているのかよくわかりませんが、外敵からの防御の意味があるのかもしれません。
そして、こちらは近年分布を広げてきた昆虫で、ハラグロオオテントウという国内最大のテントウムシの仲間です。体長は1センチメートル以上あります。

ハラグロオオテントウ

このテントウムシは、クワキジラミを主食としています。この5年ほどの間に神奈川県内でも見られるようになり、博物館のクワの木では、2019年の春に初めて確認しました。クワキジラミは、カイコの飼料となる葉を傷めてしまうため、養蚕の立場では害虫ということになります。そのクワキジラミを食べるハラグロオオテントウ、もはや相模原では産業としての養蚕は行われていないので益虫とも言えないかもしれません。しかし、クワの木が多い地域なので、これからハラグロオオテントウもおなじみの昆虫となっていくかもしれませんね。春から初夏だけ発生する昆虫なので、来年の春、少し大きめのクワの木を注意深く探してみてください。

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9月8日は、桑の日 その1 ヤマグワとマグワ

今日、9月8日は「桑の日」だそうです。9(く)と8(わ)のごろ合わせから、桑の葉茶などを販売する会社が制定したものです。
桑と言えばカイコということで、相模原の歴史と密接に関わることから、当館でもカイコの飼育展示や餌となる桑の木の育成を行っています。
そこで、今回は樹木としてのクワについて少し紹介します。まず、一般にクワと呼ばれている木には2種類あるということをご存じでしょうか。もともと日本に自生していたとされるのが、ヤマグワです。一方、中国大陸原産で、養蚕に用いる飼料としての品種改良を進めるために持ち込まれたのが、マグワです。この両種は、果実の形が異なります。

ヤマグワの果実

マグワの果実

上の2枚の写真で違いがわかるでしょうか。果実に柱頭(めしべ)が残り、果実の長さが短めなのがヤマグワです。一方、柱頭があまり残らず、果実が細長いのがマグワです。マグワの方がいかにも美味しそうに見えますが、一般的に糖分はヤマグワの方が多く、食べると甘く感じます。
葉も違いがあり、切れ込みが深く、葉先が細長く尖るのがヤマグワで、切れ込みがほとんど無く、葉先があまり尖らないのがマグワです。

ヤマグワの葉

マグワの葉

ただし、この違いは決定的な識別点にはなりません。どちらも切れ込みの深さは同じ木でもいろいろあり、葉の形は様々です。さらに、カイコの飼料として効率よく育つよう、クワも両種の交配が重ねられたり、倍数体(4倍体など)が選抜されたりといった品種改良が進められました。そのため現在、野外で見られるクワの多くがこうした改良品種の子孫で、実際にはヤマグワとマグワといった区別ができないものがほとんどです。
クワの果実は初夏に実り、ムクドリやスズメ、カラスなどが好んで食べます。種子はフンに混じって排泄されるため、電線やフェンス沿いなど、鳥がとまりやすい場所に沿ってクワの幼木がよく見られるのはそのためです。

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博物館収蔵資料紹介~鉄道に関する資料

職員ブログでは、これまで生活に係わるいろいろな道具類を紹介してきましたが、博物館ではこのほかにもさまざまな資料を収集・保管しています。今回は、交通に関する資料の中でも鉄道を取り上げます。

最初の写真は、JR横浜線の古淵駅が昭和63年(1988)3月13日に開業した際に、その記念列車に取り付けられたヘッドマークです。町田~淵野辺駅間の新駅の設置は長らく計画されていましたが、駅周辺の大規模な区画整理の実施とともに古淵駅が新設され、また、国道16号沿線には大型スーパーが出店しました。                 

 

次の二枚の写真は、横浜線相模原駅で第二次世界大戦後から昭和47年(1972)まで使用されたホーロー製の看板で、最初の「入口」と「出口」の看板は33㎝×45㎝、次の一番線と二番線を示す「1」と「2」は48㎝×30㎝ほどの大きさです。こうした看板は、今では見かけることもなくなりました。                 

 

次の写真は紙資料で、JR中央線与瀬駅(現相模湖駅)の時刻表です。明治34年(1901)に開業した与瀬駅は、昭和30年(1955)に相模湖町が誕生した翌年の31年に相模湖駅に改称しました。

昭和5年(1930)10月1日に改定された時刻表で、一日に上下線が8~9本運転されていたことが分かります。上りはほとんど飯田町駅(現在は廃駅)行き、下りの行先はさまざまで、中央線の終点である名古屋駅や、塩尻から篠ノ井線に入って長野駅まで行くものもありました。

なお、東京日日新聞は現在の毎日新聞で、右上の建物は東京日日新聞社全景です。新聞の購読者に配られた時刻表と思われます。                

 

最後の写真の盃(さかずき)は直径9cmほどの小さなもので、盃の内側には丸く甲の文字がデザインされています。甲の字が示すように、明治時代に運行していた私鉄の甲武鉄道株式会社の記念盃で、甲武鉄道は現在の中央線の御茶ノ水~八王子駅間を走っていました。盃には明治三十九年九月とあり、明治39年(1906)の翌10月には国有化されて甲武鉄道はなくなりますので、その記念として出されたものと考えられます。                 

 

博物館が保管している鉄道関係の資料は、このほかに横浜線の敷設に関するものなど書類が多く、実物資料はそれほど多くありませんが、今後とも機会があれば収集していきたいと思います。

 

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