「軍都さがみはら展」のコーナー解説ブログ⑤

緊急事態宣言を受けての休館により会期途中で終了した博物館×公文書館共催 相模原町誕生80年記念企画「軍都さがみはら展~国内最大の町誕生物語~」のコーナー解説⑤を記します。

企画展入口看板です(生き物写真展も同会場で開催していました)

今回は第5章「戦後の相模原の開発」です。

 

この軍都さがみはら展コーナー解説ブログ①「陸軍士官学校の東京からの移転」②-1「各陸軍施設の移転と建設」前編②-2「同タイトル」後編③「軍都計画と相模原町の誕生」④「戦時中の相模原町の整備」で紹介したように、1937年(昭和12)~1942(昭和17)にかけて、市域内には8つの陸軍施設が移転・建設され、その間にいわゆる軍都計画のもと、当時国内最大の町 相模原町の都市整備が進められます。

相模原町域の軍事施設

企画展の中では、戦後の相模原開発の事例として、①畑地かんがい用水事業、②相模原町から相模原市へ、③首都圏整備法と市街地開発、④国道16号の変遷、⑤軍都から基地の町へという5項目について、写真パネルなどを展示しました。

①の「畑地かんがい用水事業」は、戦後の食糧難解消のため昭和24年(1949)から着工され、昭和30年代後半には事業が完了し、現在は用水跡が「相模緑道緑地」や「さがみの仲よし小道」として部分的に遊歩道として整備されています。また、相模原ゴルフクラブ内の東西分水工などが市登録文化財になっています。

 

「畑地かんがい用水 東西分水工」(ゴルフ場内にあるため許可なく立ち入りできません)

②の「相模原町から相模原市へ」では、本市が昭和29年(1954)11月20日に県下10番目の市として誕生したことに関連し、市制記念式典の写真パネルを展示しました。

市制記念式典のようす

③の首都圏整備法と市街地開発では、昭和31年(1956)に公布された「首都圏整備法」の開発区域候補に本市がいち早く名乗りを挙げた結果選定され、工業団地地域、住宅地域が決められ、都市化が始まる契機となります。

工業団地のひとつ 大山工業団地(写真は昭和46年当時)

④の「国道16号の変遷」では、軍都計画の東西の幹線道路であった道が、戦後に二級国道の一部となり、首都圏整備法の施行により首都圏内を結ぶ環状線として重要視され、昭和40年(1965)に「一般国道16号」となった経緯をしました。

昭和43年当時の国道16号線(沿道にはまだ建物が全くない)

⑤の「軍都から基地の町へ」では、終戦後、陸軍施設はほとんどが米軍に接収(せっしゅう)され、その後キャンプ淵野辺などは一部返還されましたが、現在も市域に所在する基地として、米陸軍相模総合補給廠(一部返還)、米軍相模原住宅、キャンプ座間があることなどを説明しました。

キャンプ淵野辺の返還式(昭和49年【1974】)場所は当館周辺一帯です。

今回は、戦後の相模原の開発をトピックス的に紹介しました。これらの詳細は、『相模原市史 現代テーマ編~軍事・都市化~』ほか近現代関係の『相模原市史』などに掲載されていますので、当館や図書館等でご覧ください。(市役所行政資料コーナーや博物館ミュージアムショップで購入も可能です)

『相模原市史 現代テーマ編』ほか近現代関係

また、軍都さがみはら展の展示解説動画を当館ホームページ「ネットで楽しむ博物館」に掲載しておりますので、動画もぜひご覧ください。

当館ホームページ「ネットで楽しむ博物館」

次回は、最終回として昭和16年(1941)に誕生した相模原町に含まれていた現在の座間市さんから借用した資料について紹介していきます。

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コブシの果実の秘密

今年8月のこのブログの記事で、コブシの果実を紹介しました。鞘(さや)から覗く赤い果実には面白い特徴があるのでまた紹介するとお約束していました。このところ、熟した果実が地面に落ちていることが多くなったので、その果実の特徴について紹介します。
博物館前庭のコブシの木の下には、こんなふうに枝ごと果実が落ちていることがあります。

地面に落ちていた果実付きのコブシの枝

これは、おそらくゾウムシの仲間が産卵後に切り落としたものと思われますが、その正体はまだつかめていません。今回はそれはさておき・・この赤い果実をゆっくりと鞘から引き出します。

果実をひっぱると・・

すると、白い糸のようなもので鞘とつながっていることがわかります。

鞘の内側から白い繊維が伸びています

白い糸は細い繊維が集まったもので、5センチメートルほども伸ばすと切れてしまいます。

数センチならぶら下がります

繊維を切らずにすべての果実をぶら下げて・・

全部の果実をぶらさげてみました!

これは、秋の自然観察会の定番の遊びです。ところで、この白い繊維のようなものはなんでしょうか。
植物学の用語では、珠柄(しゅへい)と呼びます。果実と植物本体をつなぐ、いわば臍の緒(へそのお)のようなものです。植物の種類によってこの部分はさまざまな形になりますが、コブシを含むモクレンの仲間は、だいたいこのような繊維状の珠柄を持っています。では、どうして珠柄がこのように伸びるのかと言うと・・よくわかりません。熟したからと言って、自然にこのようにぶら下がるのは見たことがありません。ちなみに、赤い果実を割ると、中から黒くて硬い種子が出てきます。

赤い果実の中身は、真っ黒で硬い種子

割るときに、果実からは柑橘系のちょっとよい香りがします。果実は丸ごと動物によって食べられるのですが、種子はフンに含まれてそのまま排出されます。ただ、大人気の果実かというとそうでもないようですし、珠柄がこうした動物散布(動物によって種子をひろく散布させること)で活躍する場面も無さそうです。結局、長く伸びるコブシの珠柄の役割というのは調べてみてもよくわかりません。
自然観察会で、コブシの果実の遊びを紹介するときは、「どうしてこんなものが付いているの?」という質問が来ないかと、いつもワクワクします。「わかりません」と堂々と答えられるからです。自然界にはまだまだわからないことがたくさんある、ということを伝えるのは、自然観察会の大切なメッセージの一つなのです。

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シリーズ「相模原ふるさといろはかるた」でみる名所紹介㊷ ㋛ 芝桜

芝桜 新磯の土手 春に染め (しばざくら あらいそのどて はるにそめ)

芝桜は、茎が芝のように広がり、春に桜のようなかわいい花を咲かせます。絵札のように一面に花が咲く様子はまさに圧巻です。

今回紹介する芝桜は、南区新磯地区の相模川左岸の土手「相模川散策路」沿いに植えられ、これまで多くの来場者の目を楽しませてくれていましたが、近年はその保全活動が難しくなっているそうです。

相模川散策路 新戸から座間方面を望む(芝桜の案内板もあります)

さて、相模川散策路には、ほかにも多くの見どころがあります。最も有名なのは例年5月4日、5日に開催される大凧揚げでしょう。

大凧揚げ写真(2009年撮影)

新戸から磯部に入ると、相模川から取水を行う「磯部頭首工」、室町時代の城 磯部城の本丸跡と伝えれる曹洞宗寺院「能徳寺」があります。

相模川から農業用水の取水行う堰「磯部頭首工」

室町時代の城 磯部城の伝承を伝える能徳寺

さらに、上流の三段の滝下多目的広場付近には、磯部城の防御施設と考えられる「上磯部の土塁」など見どころが多数あります。

上磯部付近の相模川散策路…左に上磯部の土塁説明版・相模川散策路標示がある

相模川散策路には、下記のような標示があり、周辺で見られる野鳥なども紹介されていますので、ぜひ標示を探しながら自然や歴史を楽しんでみてはいかがでしょう。

相模川散策路の標示

 

*このかるたは当館のボランティア「市民学芸員」が2017年に制作したものです。
*このかるたは相模原市立博物館の開館日に閲覧・貸出し可能です。(貸出しは要予約)
*貸出し詳細やかるたに関心のある方は、博物館までご連絡下さい(042-750-8030)。
*貸出し使用時には感染症予防のため、事前・事後の手洗い・消毒を必ず行って下さい。

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今年のカワラノギク

10月6日、相模原市内の相模川に生育する絶滅危惧植物、カワラノギクの生育状況を調査しました。大きな保全地があるこの河原では、河川管理者である神奈川県のご協力のもとで保全地が作られ、「カワラノギクを守る会」や博物館が、他の植物を除去するなどの保全活動を行っています。
今年も保全地では順調に花芽をつけていました。

カワラノギクのつぼみ

今月末から来月初旬くらいが見ごろとなりそうです。
ただ、今回の調査では、人間の管理下でない場所、つまり保全地の外でどれくらい生育しているかを見て回ったのですが、残念ながらほとんど生育していませんでした。ここ数年、大きな冠水(かんすい:水位が上がって河原が水をかぶった状態)が無く、他の植物の生育が著しいことと、縦横に自動車の通った痕があり、カワラノギクの生育しやすい丸石河原があまり見られないことが原因と思われます。
保全地でも、草刈りをしない場所はイネ科の外来種であるシナダレスズメガヤが茂ってしまい、カワラノギクを圧倒しています。

左側が草刈りをしている保全地、右側がシナダレスズメガヤの群落

カワラノギクは、河原の砂礫(されき)が流失と堆積を繰り返し、ほかの植物があまり生えていない河原に群落を作ります。河原が安定して緑が濃くなると、カワラノギクにとっては生育しにくい環境となってしまうのです。
まだまだ、カワラノギクの保全には人間の手が必要な状況であることがわかりました。
ところで、調査をしていると、茂みからガサガサと大きな音がしました。よく見ると、ホンシュウジカでした。

茂みの向こうでこちらをうかがうホンシュウジカ

以前から、足あとがあったのでいるのだろうと思っていましたが、この河原で鉢合わせるのは初めてです。市内では、これまでシカが確認されていなかった地域にも少しずつ分布を広げているようです。シカの存在もまた、カワラノギクの生育に影響を及ぼす可能性があります。引き続き、河原の環境を注意深く見守っていきたいと思います。

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「写真で見る相模原~昭和・平成の生活と民俗~」(No76・伝説⑤ 塚にまつわる伝説)

今回は「塚」を取り上げます。平らな地形のところに土などが盛られて高くなっている場所が見られると、何か由来があるものと考えられてきました。

最初の写真は、南区当麻の「馬塚」(「名馬塚(めいばづか)」とも呼ばれていました)です。いつの時代にどのような馬が埋められたかは伝えられていませんが、実は七世紀に築かれた古墳で、「当麻東原(あずまはら)古墳」として市指定史跡となっています。実際に馬に乗る際の道具なども副葬品として出土しており、そうしたことが古墳を名馬を埋めた塚という言い伝えに繋がったのかもしれません(平成11年[1999]10月11日撮影)。

次の写真は中央区上溝の浅間(せんげん)神社です。この神社は久保集落で祀っていますが、元々は地元の旧家が創建したとか、宝永4年[1707]に富士山が噴火した際に、降り積もった火山灰を集めて塚を作り、富士山の守護神である浅間神社を祀ったとも言われます。現在は境内を整備し、社殿全体が高くなっています(平成11年[1999]11月18日)。

こうした富士山に関わる塚と言われるものは津久井地域にもあります。次の写真は緑区根小屋の富士塚で、塚の上には浅間神社の石碑が祀られています。ただし、この塚は津久井城が攻められた際に、城兵の首を埋葬した首塚との江戸時代の資料もあり、時間の経過とともに言い伝えの内容も変わっていったことがうかがえます(平成18年[2006]年7月4日)。

一里塚(いちりづか)は、主要な街道の一里(約4㎞)ごとに土を盛って木を植え、距離の目安としたものです。津久井地域には、江戸時代の五街道の一つである甲州道中(甲州街道)が通っていますが、写真は緑区小渕の一里塚のあったところの榎(えのき)の木です。このほかにも道沿いには点々と一里塚の跡と言われるところが残っています(平成20年[2008]3月12日)。

また、次の写真は南区新戸の一里塚の跡です。こちらの一里塚は徳川家康の棺(ひつぎ)を、静岡の久能山から日光まで府中道を通って運ぶ際に築かれたと言われています(平成15年[2003]年4月15日)。現在は残念ながら地名標柱しか新戸地区にありませんが、この時の一里塚は町田市木曽町と小野路町に残っており、二枚目の写真は木曽町のものです(平成17年2005]4月8日)。

最後の写真は、中央区共和の新田稲荷神社境内にある「呼ばわり山」です。塚というよりむしろ小山ですが、迷子や行方不明の者を探す際に、この上で鉦(かね)や太鼓を叩いて名前を呼ぶと尋ね当てることができたと伝えられています。

そして、近年では、小惑星探査機「はやぶさ」が宇宙で消息が分からなくなった際に、発見祈願のためにJAXAの開発研究者が「呼ばわり山」をたびたび訪れたということでも評判になりました。伝説が現代にも通じた例として興味深いものです(平成13年[2001]6月10日)。

今回は、一里塚といった歴史的な構築物も広く紹介してみました。このように市内には、多くの史跡などがさまざまな言い伝えを伴いながら残されており、職員ブログでもいろいろな角度から取り上げてみたいと思います。

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10月星空情報「いろいろな方法で北極星を見つけよう」

夏が終わって、空気中の水蒸気の量が少なくなり、星がきれいに見える季節になりました。

10月初め頃の宵の空はちょうど空を半分に分けるように、南から西にかけては夏の星や星座たちが、南から東にかけては秋の星や星座たちが見えています。

振り返って北の空を眺めると、一年を通して「北極星」を見ることができます。
北極星は常に空の真北にあるため、昔からとても注目されていました。
特に船乗りや旅人にとっては、方位を教えてくれる重要な星だったのです。北極星は2等星ですので、とても明るい星というわけではありません。いきなり見つけるのは少し難しいのですが、今頃の季節ですと、3つの方法で探すことができます。

1つ目は、カシオペヤ座を使います。10月初めの20時頃、北東の空に5つの星がアルファベットの「M」や「W」の形に並んでいます。図1のように、カシオペヤ座の両端の2つずつの星をそれぞれ結んで伸ばします。2本の線が交わった点と真ん中の星を結んでできる線を北へ5倍伸ばすと、北極星が見つかります。

カシオペヤ座を使った北極星の見つけ方
(10月上旬20時ごろ北の空)

 

次は夏の星空の目印である「夏の大三角」を使って探してみましょう。
図2をご覧ください。
こと座の1等星ベガとはくちょう座の1等星デネブを結んだ線を軸として、夏の大三角をパタンとひっくり返してみましょう。すると、わし座の1等星アルタイルの反対側あたりに北極星が見つかります。

夏の大三角を使った北極星の見つけ方
(10月上旬20時ごろ南の空)

 

3つ目はペガスス座の胴体の部分の星の並びである「秋の四辺形」を使ってみましょう。図3の秋の四辺形をよく見ると、上(北)の辺が下(南)の辺よりも少し短い形になっています。そのため、左(東)の辺の2つの星と、右(西)の辺の2つの星を結んで北へ伸ばすと、どちらも北極星を見つけることができます。

秋の四辺形を使った北極星の見つけ方
(10月上旬20時ごろ南東の空)

 

春から夏にかけては、北斗七星を使う方法もありますので、一年を通して北極星を見つけられることになりますね。
ぜひ、本当の空で探してみてください。

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カラスの行水

10月5日、市内南区の境川沿いで、外来動物の生息状況調査を行いました。今回は心配していた外来動物は確認されず、やれやれと戻ろうとして川沿いに出ると、カラスが水浴びをしていました。

水浴びをするハシブトガラス

これぞ、“カラスの行水(ぎょうずい)”です。意味としては、人の入浴時間が短い様子を指す言葉です。でもじつは、野鳥の中ではカラスは比較的“長風呂”です。こうした水浴び場所に適した浅瀬や水たまりで1羽が水浴びを始めると、次々にまわりから集まって来て、かわるがわる水浴びをします。

入れ替わり立ち代わりやってきて水浴びをします

長いと10分以上、羽づくろいなどしながら水浴びを繰り返します。これは外敵が比較的少ないカラスだからできることで、ほかの小鳥などはそうもいきません。水浴びは大切な羽を健全に保つために必要なお手入れですが、濡れることで動きが鈍くなり、危険な状態にもなります。多くの小鳥は数秒ジャボジャボと全身を震わせて水浴びすると、すぐに安全な場所へ退避します。カラスの行水は、野鳥界だけで考えれば長風呂のことを指すと言ってもよいでしょう。
最初に水浴びをしていたのはハシブトガラスでしたが、そのうちハシボソガラスも加わりました。

左がハシボソガラス、右がハシブトガラス

ハシブトガラスよりも一回り小さなハシボソガラスですが、水浴びをしているときは羽をふくらませるため、大きさの違いはあまり感じられません。
ふと気づくと、そばにカワセミがやってきていました。

石の上に静かに止まっていたカワセミ

カラスを観察していた目には、まぶしいほど鮮やかな羽です。

飛び立つカワセミ

5分ほどこちらも羽づくろいなどした後、さらに鮮やかな背中のコバルトブルーを見せつけながら下流へ飛び去りました。

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人吉被災標本の返却が完了

令和2年7月豪雨で被災した人吉城歴史館(熊本県)収蔵の前原勘次郎植物標本を、全国の博物館などで洗浄乾燥処理を行っています。当館でも昨年の夏今年の夏に合計560点を受け入れ、博物館を拠点に活動するボランティアグループの相模原植物調査会のみなさんと作業にあたってきました。

相模原植物調査会のみなさんと生物分野実習生による作業

昨年も今年も、生物分野の実習生を交えて作業を行いました。100年以上前の歴史的標本も含まれる貴重な資料の洗浄乾燥という特異な作業の体験は、実習生にも強い印象を残しました。この作業を終えて、人吉市の受け入れ体制も整ったことから、9月30日に熊本県へと発送を済ませました。

8箱に詰められた返却標本

洗浄乾燥処理を行った標本はどれも、近年になってから地元の植物研究者が地道に整理作業を行い、きれいに整えられたものばかりでした。地域の生物多様性を示す貴重な資産である植物標本が、今後永久に保管、利活用されることを願ってやみません。

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シラサギの種類

一般に“シラサギ”と呼ばれるのは、純白のサギ類の総称です。関東地方では主にダイサギ、チュウサギ、コサギと、大・中・小の3種類が含まれます。純白なだけによく似ていて、慣れないと識別は困難です。下の写真は、市内の相模川にいたダイサギ(右2羽)とコサギ(左)です。大きさの違いがよくわかります。

コサギ(左の1羽)とダイサギ(右の2羽)

コサギは比較的識別が簡単で、足指が黄色いのが目印です。これはシラサギの中でコサギだけが持つ特徴です。

水面の上に出た足指が黄色いコサギ

ちょっと難しいのが、ダイサギとチュウサギです。大きさは、大と小の中間というより、コサギに近い大きさです。下の写真は上がダイサギ、下がチュウサギです。でも、この写真のように並んでくれればわかりますが、1羽だけで見るとシルエットはよく似ているので難しいところです。

ダイサギ(上)とチュウサギ(下)

近くから観察できれば、顔にわかりやすい特徴があるので見分けられます。口角(こうかく)にあたる部分が、目の位置より後ろまで伸びているのがダイサギ(上の写真)です。目の位置くらいで止まっているのがチュウサギ(下の写真)です。さらに、嘴(くちばし)から額のラインが直線的なのがダイサギで、少し丸みのある額がチュウサギです。

ダイサギの顔 口角(クチバシの合わせ目の付け根側)が目の後ろ側まで伸びている

チュウサギの顔 口角が目の下あたりで止まっている 額は少し丸みがある

チュウサギはこれらの3種の中では少し数が少ないのですが、秋のこの時期は稲刈り前後の水田でよく見られます。
ところで、ダイサギについてはさらにややこしい話があり、亜種(同種の中で、繁殖分布などが異なり形態的にやや違いが見られることから区別する分け方)としてチュウダイサギがいることです。亜種ダイサギと、亜種チュウダイサギについてはまた別の機会に紹介したいと思います。

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「写真で見る相模原~昭和・平成の生活と民俗~」(No75・伝説④ 石や岩の伝説)

「木」「水」に引き続き、今回は「石(岩)」です。

最初の二枚の写真は、緑区与瀬の「御供岩(ごくいわ)」です。この地区では与瀬神社を祀っていますが、ご神体は相模川での漁の網に掛かったとされ、その場所にあったのがこの岩です。しかし、相模湖建設のために元々の岩は湖底に沈み、現在はその一部の岩が湖畔に移されています。4月の祭りには、御供岩にも新しいしめ縄が巻かれ、また、神社の神輿(みこし)はここまで担がれてから、神社に戻ります(平成20年[2008]4月11日撮影)。

 

次の写真は中央区田名の「亀の甲石(かめのこうらいし)」です。明治22年[1889]の相模川の洪水の際に大きな亀が流れ着き、いろいろ世話をしたものの死んでしまいました。その亀を埋葬した上に、亀によく似た石を置いて供養したとされ、9月の地区の神社の祭礼翌日にこの石の祭りを行いました。写真はちょうど2月の初午(はつうま)の後で、団子が供えられています(平成12年[2000]2月11日)。

 

ほかにも相模川に関係するものとして、例えば中央区田名の「船乗り地蔵」があります。舟形の石の上に地蔵(ただし頭部はありません)が乗ったもので、自分の子どもが相模川で死んでしまった船頭が、供養のために以前からあった地蔵を祀り、それからは地元の船乗りやいかだ乗りも安全を祈ってお参りしたと言われています(平成13年[2001]年1月16日)。

 

雨が降らなくて困った際に行われる雨乞いにはさまざまな方法があり、職員ブログ「相模原ふるさといろはかるた」No.36でも紹介しましたが、次の写真はその際にも取り上げた、中央区田名八幡宮にある「じんじい石」や「ばんばあ石」です。雨乞いには、ほかにも寺の鐘や石仏の地蔵を水に入れるという話が各地にあり、石など水の中に何か入れることで水が降ると考えられてきました(平成13年[2001]年1月6日)。

 

石は重いものなので、神社の境内などには若者が力比べをしたという力石が見られます。写真は南区鵜野森・日枝神社の力石で、重さが異なるいくつかの力石があり、それぞれ米粒(十七貫・約64㎏)、そば粒(二十七貫・約101㎏)、ぼたもち(二十八貫・約105㎏)などと呼ばれていました。かつては米俵(十六貫・約60㎏)が担げれば男は一人前だったという話を聞きますが、それにしても重い石で力試しをしたことが分かります(平成15年[2003]3月16日)。

 

最後の写真は中央区上溝の「岩倉の手玉石」です。前と同じく力石で重さは300㎏くらいあるとされ、この地にいた岩倉という力士が、力が湧いてくるとこの石を手玉にとって力を試したと言われます。市内ではこのほかにも、緑区相原に国定忠治(くにさだちゅうじ)が軽々と持ち上げたという力石もあり、力士岩倉をはじめとした大力の者の話が残されています(平成10年[1998]11月18日)。

このほかにも石や岩の伝説や話は各地にあり、特に「船乗り地蔵」など、石で作られた石仏にはさまざまな言われを持つものが見られます。改めて機会を捉えて紹介したいと思います。

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