博物館のお隣の樹林地のキンランが満開となりました。
4月20日、快晴のお天気のためか、花もよく開いていました。
そして、一昨年あたりから博物館の敷地内で開花が見られるようになったギンランも、キンランにほんの少し遅れて咲きだしました。
ギンランの花径は葉よりも高くは伸びず、おくゆかしく咲きます。
キンランもギンランも、かつては里山を代表する、とてもメジャーな野生ランでした。しかし、雑木林の減少、衰退とともに数が減り、現在は絶滅危惧種となっているため、そっと見守っていこうと思います。
博物館のお隣の樹林地のキンランが満開となりました。
4月20日、快晴のお天気のためか、花もよく開いていました。
そして、一昨年あたりから博物館の敷地内で開花が見られるようになったギンランも、キンランにほんの少し遅れて咲きだしました。
ギンランの花径は葉よりも高くは伸びず、おくゆかしく咲きます。
キンランもギンランも、かつては里山を代表する、とてもメジャーな野生ランでした。しかし、雑木林の減少、衰退とともに数が減り、現在は絶滅危惧種となっているため、そっと見守っていこうと思います。
2014年頃から一昨年まで博物館周辺で続いたキアシドクガの大発生も、昨年には終息し、食樹であるミズキはしっかりと開花し始めました。
大発生のピークの年(2018年)は、花芽もろとも食べられて、開花を見ることはありませんでした。ただし、一部の枝の葉はこのように虫食いがあり、数はぐっと減りましたが、キアシドクガがいることがわかります。
そんな場所をよく探すと、若い葉が左右を上側で閉じて、袋状になっているものがあります。
これは、キアシドクガの脱皮室です。口から吐いた糸で葉の縁をつなぎとめて、このような脱皮室を作り、その中で脱皮をします。開けてみると、4齢でしょうか、キアシドクガの幼虫がいました。
博物館周辺では大発生も収まり、すっかりおとなしく“ふつうの蛾”となったキアシドクガですが、今年は神奈川県の北西側、山梨県南部あたりで大発生しているようです。また、博物館周辺もキアシドクガの食害で弱ったミズキの健康状態の悪化や、枯死は続いています。大発生の余波はしばらく続きそうです。
5月9日(日)まで、当館では考古企画展「変化の時代を生きた縄文人―相模原市域の縄文時代中・後期文化―」を開催しています。展示期間中の毎週火曜日に「今週の一品」と題して、展示資料の中から学芸員が選りすぐった一品を紹介しています。
第2回目は土偶(どぐう)です。土偶とは粘土を素材とする素焼きの人形で、縄文時代を代表する祭祀具(さいしぐ)の一つです。一般的には妊娠した女性を表現しているとされ、自然の豊かな実りを象徴するものであったと理解されます。
写真は、左が緑区の川尻中村(かわしりなかむら)遺跡、右が中央区の田名花ヶ谷戸(たなはながやと)遺跡から出土した土偶です。いずれも縄文時代中期後葉(およそ5,000~4,400年前)の土偶で、この時期の土偶は、腕を横に広げた十字型の小型土偶が多く、簡略化された足が特徴的で、腰から前や横に突き出す突起として表現されています。また、顔面の表現も簡略化され、目や口が刺突で描かれています。写真の土偶で注目していただきたいのが、頭の部分です。いずれも鉢巻を巻いたような表現が見られるコンビのような土偶たちです。鉢巻土偶は、相模原市域から多摩地域に分布する地域色の強い土偶で、鉢巻土偶の保有を通じた人々の結びつきがあったのかもしれません。
今回ご紹介した資料は、考古企画展「変化の時代を生きた縄文人―相模原市域の縄文時代中・後期文化―」の「5 豊かな恵みを願って」、「おわりに 変化の時代を生きた縄文人」のコーナーで展示しています。
本シリーズNo.50で彼岸に行われた念仏講、前回のNo.53では新築された家での家見(いえみ)念仏を紹介しましたが、地域のもっとも重要な産業であった養蚕のために女性が集まって講を行い、お祈りすることも各地で見られました。
最初の写真は、昭和58年(1983)度制作の文化財記録映画・第2作目の「さがみはらの養蚕」において、緑区相原で撮影された蚕影講(こかげこう)です。4月の養蚕の作業が始まる前に、蚕の神である蚕影様の掛け軸の前で、念仏講のように数珠(じゅず)を回しながら行っています。
次の写真は、昭和59年(1984)4月18日に中央区田名・堀之内地区での撮影で、この地区では蚕影山神社を祀っていますが、地区の女性有志が公会堂に集まり、養蚕開始の4月と終了する10月に金色姫(こんじきひめ)の和讃(わさん)を唱えます。その内容は蚕の由来を説くもので、蚕の始まりの物語が独特の節回しで唄われます。
同じく田名・堀之内では、月の26日に集まって念仏をあげる二十六夜講が行われていました(昭和59年[1984]4月26日撮影)。かつては4月と10月の26日に、講中の家々の比較的年齢が若いお嫁さんたちが集まり、4月は蚕がよく繭を作るように、10月は養蚕が当たったことのお礼として行いました。
また、二十六夜講では愛染明王(あいぜんみょうおう)を礼拝するとされており、ここでも愛染明王の掛け軸を掛けています。
「養蚕は女性の仕事」と言われ、蚕の世話や糸取りなどは女性が中心で、このような祈願や養蚕終了後のお礼の行事なども女性によって行われました。こうした養蚕の信仰に関わる写真をほかにも多く保管しており、次回も取り上げてみたいと思います。
博物館の前庭に植えられているエビネが、見ごろを迎えました。
毎年、花が終わった後に少し手入れをしてきたら、徐々に株が増えてきました。こちらのエビネは薄紅色のタイプの花で、唇弁(しんべん=花弁)が少し細身のタイプです。
エビネは中庭にもあります。こちらは白い花で、唇弁が丸みを帯びています。
こちらも株が増えるように手入れをしてきたところ、今年はこれまでで最大の30本以上の花径(かけい)が花を咲かせようとしています。日当たりの加減か、中庭のエビネは今咲き始めたところなので、来週以降が見ごろになりそうです。
こちらは、カザグルマのつぼみです。カザグルマは、県内では横浜市内の一カ所と、相模原市内の数カ所にしか自生地が残っていない絶滅危惧種です。
博物館では、市内中央区の自生地の株を増やして栽培し、系統保存をしています。中庭のカザグルマも、来週には咲きそうです。例年、ゴールデンウィークにちょうど見ごろになりますが、今年は花期が早まっています。来週、ご来館の際は美しい大きな花をぜひご覧ください。
4月15日、市内緑区の陣馬山(じんばさん)へ、春の植物の開花状況などを調べに行きました。桜の開花前線と同様に、今年は例年よりも2週間近く早く開花が進行していました。いつもの年ならゴールデンウィークに入る頃に咲き始めるイカリソウが、すでにピークを過ぎようとしていました。
スミレの仲間もたくさん咲いていて、エイザンスミレがちょうど見ごろでした。
こちらはクロモジの花です。
林内ではあちこちでカケスが鳴きながら飛びまわっていました。
山頂はよく晴れて、10組以上の登山者が休憩していました。
山頂近くのヤマザクラです。すでに花のピークが過ぎて、赤い若葉が青空に映えていました。
この日の調査の目的のもう一つが、樹林内の様子です。令和元年台風19号によって、特に西側斜面が荒れた状態になっています。この日、登山道から見たところ、だいぶ傷んで立ち枯れたり、枝が折れたりしている木もありましたが、樹林はそうしたものも徐々に抱き込むように風景に溶け込ませているようでした。
雑木林に咲く代表的な野生ランであるキンラン。近年は生育に適した、林内の明るい雑木林が少なくなり、加えて花が咲くとすぐに盗掘にあってしまうことが多く、姿を消してしまうのではないかと心配になるくらい数少ない植物でした。それが、一昨年あたりから目立って開花する株が増えて、昨年は博物館近くの木もれびの森でも大量に開花しました。そして、博物館のお隣の樹林地でも昨年、人目につかないエリアでひっそりと咲いているのを発見しました。今年、同じ場所で昨年よりもたくさんのキンランがつぼみをつけています。
名前の由来となる黄色い花(つぼみ)がだいぶ目立っているものもあります。キンランはあまりはっきりと花弁を開かず、おくゆかしく咲きます。ちょっと口を開く程度ですが、あと数日で咲くでしょう。
それまで、博物館周辺のそのエリアではキンランを確認したことはありませんでした。おそらく、花を咲かせずにひっそりと葉だけを伸ばしていたものと思われます。それが、8年ほど前から続いたキアシドクガの大発生により、食樹であるミズキの木が傷んで枝を落としたり、木が倒れたりして林内が開けて明るくなる場所ができました。そんな場所のキンランが、ここぞとばかりに開花しているのでしょう。
大きな騒動になったキアシドクガの大発生の他、ここ数年はカシノナガキクイムシによるコナラの枯死も目立っています。そんな自然のリサイクルを知ってか知らずか、キンランは虎視眈々と開花のタイミングを狙っていたのかもしれません。風前の灯かと思われた野生ランの、意外なしたたかさを見たような気がします。
ところで、雨模様となった4月13日のフデリンドウです。
これは開花前のつぼみではなく、晴れていないために花を閉じた状態です。晴れて気温が上がらないと、花粉を媒介してくれる昆虫も飛びません。そんなときには昆虫レストランを閉店して、しっかり花を閉じて雌しべを守ります。フデリンドウ好きの人間にとって、雨の日はサービス無し。こちらもなかなか、したたかな戦略ですね。
5月9日(日)まで、当館では考古企画展「変化の時代を生きた縄文人―相模原市域の縄文時代中・後期文化―」を開催しています。本日から、展示期間中の毎週火曜日に「今週の一品」と題して、展示資料の中から学芸員が選りすぐった一品を紹介していきたいと思います。
第1回目の今日は、勝坂(かっさか)式土器です。勝坂遺跡は、南区磯部地区に所在する本市を代表する縄文時代の遺跡です。大正15年(1926)に最初の発掘調査が行われ、その際出土した土器の一部を基準として名付けられたのが勝坂式土器です。現在では、縄文時代中期(およそ5,000年前)の西関東・中部地方を中心に分布する土器の名称として定着しています。
勝坂遺跡に立つ「勝坂式土器発見の地」の説明板 地図を表示する(外部リンク)
写真の土器は平成10年(1998)に勝坂遺跡から出土したもので、全体の形は、やや開きながら立ち上がる一段目と、一段目との間に括(くび)れを挟んで膨らむ二段目、垂直に立ち上がる三段目からなっています。底の部分は残念ながら残っていませんでしたが、残存する高さでおよそ50cmあります。一段目には、縄を回転させながら押し当ててつけた縄文と、粘土紐を貼り付け装飾した台形、三角形、楕円の区画文(くかくもん※粘土の紐や線などで器面を区画した文様)がほどこされます。二段目には楕円の区画文が見られ、三段目は縦線文様となっています。このように勝坂式土器は、立体的で、粘土紐を多用した複雑な文様が特徴となっています。勝坂式土器の豊かな装飾性は、縄文時代中期における縄文文化の繁栄を象徴するものと言えるのではないでしょうか。
今回ご紹介した資料は、考古企画展「変化の時代を生きた縄文人―相模原市域の縄文時代中・後期文化―」の「1 変化する集落の姿」のコーナーで展示しています。
職員ブログNo.50では、彼岸に行われた念仏講を紹介しましたが、実は念仏講は彼岸に行われるだけではなく、例えば、人が亡くなると、その家に集まって葬式念仏(とむらい念仏)を唱えるのは一般的なことでした。
そして、最初の写真は、平成5年(1993)度制作の文化財記録映画・第12作目の「庶民のいのり―相模原の念仏講―」において、緑区相原で撮影された「家見(いえみ)念仏」です。新築された家で行われ、歌詞には新築の家が末永く繁盛する願いが込められています。
新築と念仏というと意外な感じですが、家見念仏は各地で行われており、映画では当時、10数年ぶりの家見念仏を撮影することができました。
また、次の写真は、昭和63年(1988)10月24日の南区当麻・宿地区での撮影で、ここでは4月と10月に集落にある子育て地蔵を祀りました。地区の女性が集まり、地蔵にお参りした後に念仏を唱えました。二枚目写真の右奥に地蔵の祠(ほこら)が見えています。
南区の下溝・古山地区でも地蔵を祀っており、ここでは4月と12月に地蔵の念仏を行います(昭和61年[1986]4月4日撮影)。当日は地蔵の祠の前に幟(のぼり)を立て、元は祠の前で行っていたのが、後に地区の公会堂に場所が変わりました。三枚目写真の右奥に、「地蔵尊」と書かれた掛軸があるのが分かります。
なお、この地蔵は子育て地蔵のほか、古くは雨が降らない時に川に沈めておいた雨ごいの地蔵とも言われています。
もちろんこうした地蔵を祀ることは津久井地区にもあり、緑区千木良・中央地区では地蔵堂で「地蔵のおこもり」を行いました。火事よけの火伏せの地蔵と言われ、毎月のようにおこもりがあって特に2月14日が本祭りで、写真は平成22年(2010)2月14日撮影です。始まる前に参加者が地蔵様を拝んでいます。
前々回に取り上げた地神講のように、各種の講などに関する写真はほかにも保管しており、いろいろなテーマに基づきながら今後とも紹介していきたいと思います。
博物館の前庭にはクヌギの木がたくさんあります。お向かいのJAXAのフェンス沿いにもたくさん植えられているので“クヌギ通り”と呼んでもよいくらい、立派なクヌギが並木を作っています。その下を歩いていたら、上の方から「チュイン、チュイン」とささやくような鳴き声が聞こえてきました。
マヒワの群です。冬鳥として渡来する小さな鳥です。博物館周辺ではまったく見られない年も多いのですが、今年はマヒワが多いという情報があり、そのうちやって来るのでは、と思っていました。それは、この時季はクヌギやコナラの雌花をよく食べるからです。この群も、クヌギの枝の雌花を懸命についばんでいました。
レモン色が目立つ鳥で、オスは頭に小さなベレー帽を載せたような黒い模様があります。
冬鳥としては春遅くまで見られ、渡来数が多い年は長く滞在する傾向があり、ゴールデンウィークまでいることがあります。
足元では、フデリンドウが花盛り。たくさんの花をつけた大きな株も目立ってきました。
ツグミやシメなどの冬鳥もまだ見られます。この時季は春と冬が同時に楽しめるようでちょっと得をした気分になります。